手塚太郎金刺 光盛と手塚家系譜

 手塚太郎金刺 光盛は諏訪大社下社の神官金刺氏大祝(おおほうり=神職の最高位)の一族です。また、この時代婚姻により各家の結び付きを強固なものにするという観点から依田氏系統もひいており、上田市塩田の手塚郷の人です。遅くとも12世紀中頃には生をうけ、山梨県勝沼の三枝(さえぐさ)氏より妻を迎えています。

 30年に渡り木曾義仲公を庇護支援しており、平氏打倒の戦「篠原の戦い」では、幼少期の義仲公の恩人でもある「齊藤實盛(さいとうさねもり)」とは知らずに討ち取ってしまいました。
平家物語の“實盛”の中で登場する光盛は、木曾義仲公最期に名前が登場するほど勇猛果敢な武将だったようです。寿永3年(1184)正月、近江粟津の戦いで、義仲仲とともに討死しています。

 手塚太郎金刺 光盛が先祖と口伝のある上田地域の手塚氏は、神畑手塚家、手塚治郎左衛門(旧八木沢村)、須川手塚家、下本郷手塚家などがあり、手塚氏が残した子孫は日本各地に散っていったものと思われます。
漫画家の手塚治虫氏もこの一族です。

 木曾義仲公が討たれた後、手塚氏は手塚姓を「横林」(他、多数の別姓あり)などに替えながら、乱世を生き抜いてきました。

民話「唐糸観音(唐糸と万寿姫)」

 手塚の里に、手塚太郎金刺光盛という侍がおりました。光盛は木曾義仲公の重臣で、りっぱな侍です。その光盛に「唐糸の前」という美しい娘があって鎌倉に召されていました。

 寿永2年(今から凡そ830年前)の秋、源頼朝は京都に上がった木曾義仲のふるまいを怒り、これを討とうと図りました。
 これを知った唐糸は、父の主君である義仲公に手紙を送りました。そこには「父光盛に信濃・越後の二国を賜れば、頼朝公を亡き者にします。木曾家に伝わる家宝の脇差を送って下さい」と書いてありました。しかし、この企ては失敗に終わり、唐糸は鎌倉山の石牢に入れられてしまいました。

 手塚の里では60歳を超した祖母と、12歳になる万寿姫とで留守を守っていました。万寿姫は風の頼りに母唐糸が石牢に入っていることを聞き、鎌倉に至り八幡宮に祈願ののち頼朝の北の方に仕えました。

 ある日、頼朝の祈願成就のために、舞“今様”の奉納が行われることになりました。舞姫の1人に加わった万寿姫は、その歌舞が見事なことで頼朝の目に留まり「今様の名手じゃ褒美を取らせよう」と言われましたが、万寿姫は褒美のかわりに「母の放免」を願い出ます。孝心に免じて唐糸は許され、信濃国手塚の里一万貫と、黄金、錦を賜り、五日後めでたく手塚の里に帰りました。(西塩田振興会:宝庫・西塩田の民話伝説参照)

民話「鞍が淵とたつの子太郎」

 昔、独鈷山(とっこざん)のいただきに寺があり若い僧がお経を始めると、毎夜どこからともなく美しい娘がお経を聞きに通ってきました。不思議に思った僧はある夜、娘の着物のすそに糸のついた針を刺しておきました。夜が明けてみると、糸は戸の節穴を抜け鞍が淵まで続いていました。

 見ると大蛇が赤児を産もうと苦しんでいました。娘は鞍が淵の主、大蛇の化身でした。大蛇は産まれた児を鞍岩の上に置き死んでしまいました。この川は産川(さんがわ)と名づけられ、大蛇の遺骨は蛇骨石(じゃこついし)となって散らばり現在も探すことができます。

 産まれた児は小泉村の老婆に育てられ、小泉の小太郎と名付けられました。小太郎が14、5歳になった頃老婆に「婆のため少しは手助けをしておくれ」と言われ、小太郎は小泉山に出かけたきぎ取りをしました。

 一日で山にある限りの萩の木を二抱えほどの束にして、夕方帰ってきました。そしてお婆さんに「この結び縄を解かないで一本ずつ抜いて焚きな。山中の萩の木だからな」と言いました。
 老婆は「よしよし」と答えたが腹の中で「一日仕事で山中の萩の木なんぞ取れるものか。こんな小束にまとまるものか」と、小バカにして小太郎の留守に結び縄を解いてしまいました。

 すると萩はたちまち、はぜくり返って家一杯に広がり、老婆は萩に押し潰されて死んでしまいました。それから小泉山には、萩の木が一本も生えていないといわれています。
 また、小太郎の子孫は長らくこの地に住んでいるが、横腹にヘビの“こけら”のあとがあるといわれています。