
❶とっこ館前の駒形橋
信濃が生んだ猛将・朝日将軍“木曾義仲”が依田城で兵を上げてから、越後の国の城資長(じょうすけなが)を向うにまわして出陣のおり、光盛も海野・祢津・円子(まるこ)氏らと手兵数十騎でこれに加わりました。
出陣の朝、家族乳母らと別れの杯を交わし手兵らと武運長久を祈りました。軍神に祈願したとき「めりめり」と音がして、石橋に「ひずめ跡」が浮き出たではありませんか。「これは武運長久・幸運の兆しであろう」と大変喜びました。
橋は四尺あまり(1.2m)幅三尺(1m)、明治初年には2か所に有りましたが、その後、手塚堰口(せんげぐち)三の堰に使われていたのが一つ残っているだけになり、現在は、とっこ館前の用水路に案内板とともに架け替えられました。

❷手塚氏の守り本尊 元木の地蔵
昔、弘法大師がこの塩田平の地を訪れた時、産川上流の元木
の沢に有った柳の大木を見て「これは霊木である」として幹の根元の方で地蔵尊を彫ったという伝説があり、初めはその沢のほら穴に安置していました。延命地蔵菩薩で雨ごいにも大変ご利益があり、村民に厚く敬われていました。
根元の方で彫ったから「元木(もとき)の地蔵」、木の末の方で彫られたので「末木(すえき)の薬師」として、末木の薬師は、現在中野地域に祀られています。
その後光盛は、この元木の地蔵を手塚氏の守り本尊として手塚の堰口(せんげぐち)に応慈山光盛寺(おうじざんこうせいじ)を建て、岩山からこの寺に移しました。そして、光盛は木曾義仲公に従い京へ上がったのです。
その後、守り本尊は東紺屋村のお堂に、明治2年には無量寺へ預けられ、現在はお堂ができ安置されています。
元木の地蔵は1mほどの高さで、脇侍として制多迦童子(せいたかどうじ)と金羯羅童子(こんがらどうじ)を従えています。

❸小泉小太郎の生まれ故郷 鞍が淵(くらがふち)
昔、独鈷山(とっこざん)のいただきに寺があり若い僧がお経を始めると、毎夜どこからともなく美しい娘がお経を聞きに通ってきました。不思議に思った僧はある夜、娘の着物のすそに糸のついた針を刺しておきました。夜が明けてみると、糸は戸の節穴を抜け鞍が淵まで続いていました。
見ると大蛇が赤児を産もうと苦しんでいました。娘は鞍が淵の主、大蛇の化身でした。大蛇は産まれた児を鞍岩の上に置き死んでしまいました。この川は産川(さんがわ)と名づけられ、大蛇の遺骨は蛇骨石(じゃこついし)となって散らばり現在も探すことができます。

❹流鏑馬(やぶさめ)の道・塩野神社前と中禅寺
現在の西前山公民館が建てられている場所は 五輪供養塔馬場(ばっぱ)という地名で、昔は馬術の訓練をした場所と考えられます。塩野神社の参道は東西に一直線で長さも200m余りで、流鏑馬の道として適当で、その両端には馬返しの跡と考えられる地形も残っています。近くには藪挟(やぶさみ)・西馬場という地名などが残り、手塚氏創建ではと思われる式内社「塩野神社」境内には流鏑馬の出発点となる鳥居があります。
光盛の兄弟に、建久4年(1193)・文治2年(1187)鶴岡放生会流鏑馬で妙技披露した盛澄(兄)がいます。
塩野神社の鳥居が、西前山でなく手塚大郎光盛の住んでいた手塚に向かっているのも、光盛が塩野神社を祀った事を意味していると思われます(手塚誌)。
先の倭式騎馬会会長(森顕氏)の現地視察の折のコメントは、「見事に保存されている流鏑馬の道は、日本的に見て非常に貴重で類が無い」とお話されておりました。

❺手塚太郎金刺 光盛の五輪供養塔
光盛の供養塔と伝えられる、立派な五輪塔です。高さ1.25m室町末期から鎌倉初期の作と考えられます。手塚の個人宅の庭に有ります。

❻手塚氏菩提寺 光盛寺跡
現在の手塚太郎金刺光盛の菩提寺と伝えられる光盛寺(こうせいじ)跡です。「手塚村光盛寺地蔵堂略縁起正保3年(1646)弘法大師御作の地蔵尊(雨乞え地蔵・元木の地蔵)を光盛が手塚村に講じ奉り、その家の本尊と
して恭敬し、光盛没後亡主追福のため堂舎を営み応慈山光盛寺(おうじざんこうせいじ)と号した」と記載が有ります。
光盛寺は廃寺になり、現在はその跡に菩提樹が立っています。本尊は昭和55年(1980)、手塚自治会によって無量寺境内に造られた地蔵堂に安置されています。

❼手塚太郎の居館跡と伝えられる大城、唐糸観音堂・唐糸草子
唐糸草子は、親孝行のお話で有名です。光盛の娘の唐糸を供養したと伝えられます。(宝永3年差出帖に光盛守り本尊と)中には唐糸観音堂があり、唐糸観音像が祀られています。
大城と呼ばれたここは、光盛の居館跡と伝えられています。この屋敷の中を通り、荘園時代の塩田平の殆どの流域に、産川の水を流したと考えられます。(中塩田、西塩田全地域へ)
入口の門は、明治初年のチャラ金騒動で訴訟団の焼き討ちに会い、今でもその傷跡が残ります。
昭和16年(1941)頃までは、堅固の門と敷地約1000坪東・西・南の三方の石垣土塀・門が残されていました。個人所有のため非公開です。

❽安楽寺に保存されていた手塚太郎の子孫 手塚吉兵衛の位牌
安楽寺開山堂に安置された「手塚太郎金刺光盛の子孫」と伝えられる位牌に、「水戸 長沼侍医手塚良仙光照」と書かれた厨子と古文書が判明、漫画家手塚治虫氏の家に残された古文書と一致しました。
光盛の子孫で手塚村に住む手塚吉兵衛は、天正年間( 1 5 7 3-1593)田中城主「芦田右衛門信蕃(のぶしげ)」に仕え、その後幕府「先手与力」に、晩年は手塚村に戻って寛永15年(1638)に亡くなっています。
この吉兵衛の三男盛行の6代後の「光照」が、娘婿・良斎に吉兵衛の位牌を探させた結果「別所安楽禅寺」で発見。光照は安政4年(1857)に位牌を拝み、厨子を新調しました。この一連事を、孫の大槻徳裕が銅板に記
しています。(お参りできない場合があります)
